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信 徒 の 証

 
主に委ねて
M.N. 
 主人と私とは、数年前に金婚の年を過ぎ、子供たちも巣立ち、二人だけの生活になって二十年余りが経とうとしております。比較的、健康に恵まれ、感謝して過ごしてまいりましたが、やはり年齢と共に、この数年は体調が衰え、入退院を繰り返すことも多くなりました。一番困ったことは主人の認知症の始まりでした。車の運転で道順や方向を間違えるという事が多くなりました。事は命にかかわることなので、とても心配でした。若い時から、穏やかな運転をする人だったので、免許証の返上を促すのはあまりにも可哀そうなことと思案しておりましたが、なんとか自分から返上を言い出してくれてホッとしました。それから何となく覇気がなくなった様に思います。
 その後3年ばかり、体調が落ちて介護が必要になり、一日のうち大半をベッドで過ごすようになりました。 昔、親の介護の必要な時は自身も若さがありましたが、老いて一人で介護を担う事の大変さは私の想像以上でした。
 そして、子供たちもいろいろと心配してくれ、お世話になっているケアマネージャーの方から、介護施設を紹介して下さり「今はどこの施設も満室で、申請してもすぐには入れないので、今から申し込んだらどうですか。」と言われ、子供とも相談の上、決めました。2,3年は待つ、と言われていたのですが、意外にもそれから、1月程して、一つの施設が空いた開いたからという事で、お世話になることになり、今に至っています。
 しかし、私の精神的苦しみはここからが始まりでした。
主人が入所して、私の独り暮らしが始まると、思いがけない感情が込み上ってきました。独り暮らしの何んと寂しく、空しいものであるか―。
 「私について来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。」(マタイ16:24)  ある朝、このイエス様のお言葉は私の胸に直接、飛び込んできました。私は自分を捨てることも出来ないし、自分の十字架を背負うどころか投げ出してしまっている。主人の介護を投げ出してしまっている私は、主に従う資格などない-これはどんな言い訳をしようと、事実であり、私の現実です。
 私は主の御前に立つ資格はなく、唯ずっと遠くから主よお許し下さいとお願いするしか方法のない者であることを知りました
 イエス様が十字架につかれる前に弟子のペトロに言われました。「あなたは今夜鶏がなく前に三度私のことを知らないと言うだろう」と予告したとき、ペトロはそのことを強く否定したのですが、実際は主の言われた通り、三度知らないと言ってしまうのです。鶏のなく声で、彼は主の言葉を思い出し、激しく泣いたとあります。
 そして、ルカによる福音書には「主は振り向いてペトロを見つめられた」と書かれてあります。主の見つめられたまなざしは決してペトロを責めるものではなかったと、私には思えます。全てを知りたもう主は愛の目でペトロを許し、慈しみのまなざしを向けられたのだと思います。そして、そのまなざしは私にも注がれていると思われるのです。許される資格のない者であっても、許されている―そう思えるように導いて下さった主に感謝したいと思います。 そして許されるなら、今度その機会が与えられたら、弱い自分ではなく、強い自分になって、主の望まれる道を歩かせて頂けたらと願っております。


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